手話づけ一日


宇都宮の講習会後、栃木手話通訳問題研究会の研修会に参加しました。
「栃木の手話と地域手話の収集と保存」ということで、各年齢層に別れてグループ別で表現の確認をし合いました。わたしは40〜50代のろうあ者のグループの中に入り、日本手話、伝統的手話で多様に表現される手話表現を教わりました。

わたしが今までに学習してきた手話の殆どが、日本語対応手話、同時法、シムコム(助詞の指文字表現の読取りは苦手)です。通訳を目指す今、日本手話、伝統的手話の必要性をひしひし感じてしまっている訳ですが…。頭が硬くなってしまった今、まず初めに記憶された表現しか引出されないし、後から別な表現を収納するにも時間がかかるかな…と。。。
今日勉強した手話表現は自分のものにするのにはまだまだ時間がかかるだろうと思うし、もしかしたら一生使わないかもしれないし。でも、通訳者になれば、その表現を読み取れる必要があるので、「知らない、分らない」では済まされないかもな〜とか色々考えさせられました。


研修終了後、ある通訳者さん(足がないので送ってゆくために)と二人で帰宅してきたのですが…。
延々と「聾者の日本手話」の大切さ、とか必要性とか、延々と話されました…。洗脳されそうでした。。。
わたしとしては、勿論聾者の日本手話は大切で、何よりそれを使う聾者とはそれで、伝統手話を使う聾者には伝統手話でコミュニケーションできれば素晴らしいと思います。
けれど、そうじゃない聴覚障害者もいるということ。
大人になってから病気で聴力を無くした人に対する通訳は、日本手話より口形を使った日本語対応手話の方が適している場合が多いと感じます。また、現在聾学校に通い、助詞も省かないきちんとした日本語を習う子どもたちとのコミュニケーションも対応手話の数の方が多いと感じます。
日本手話だけに固執するような考え方は、通訳者としての幅を狭めるとわたしは思います。ので、わたしはこのような考え方の通訳者は(今のところ)目指しません。
できればオールマイティに。どんな方とでもコミュできる(相手を選ばない)通訳者に。

とは言ったものの、今のわたしに一番必要なのは『「聾者の日本手話」を理解し、表現&読取りできること』なんですけどね。。。