別れ


小雨の降る中、差していた傘を閉じると彼女はバスに乗り込んだ。
一番前の座席に座ると、窓越しにこちらを向いて深く頭を下げた。
言葉は聞こえない。口だけが〝ありがとうございました〟と象っている。


その感情は突然込み上げた。
じんわりと目頭が熱くなるのが分かった。
わたしは目を大きく見開いて、まばたきをする。
口角だけが無理矢理つり上がって、最後だというのに、きっと、堅く強張った笑顔だったに違いない。


今日、彼女は引越して行く。
13:00pm
車を手放した彼女のアパート退居の最後を手伝った。
退居だというのに、部屋に残っている荷物の量が多い。
分別ゴミ箱、ゴミ袋、お茶、運動靴、バケツ、ほうき…。。。
…そして手荷物も多いのだ。
バスタオルや着替えが入った大きなボストンバッグ、ノートパソコンや配線が入ったバッグ、友人たちに借りたままのDVDや書籍が入った手さげ、肩からななめに掛けられたお財布等が入ったショルダーバッグ。
ファスナーが壊れそうになるくらいぎゅうぎゅうに詰め込まれたそれらは指がちぎられそうになるほど重い。
わたしたちは荷造りした荷物と運動靴を宅急便に持ち込んだ。


14:30pm
宅急便で荷物を発送した後、遅い昼食を二人で摂った。
那須塩原の記念に千本松牧場ジンギスカンが食べたい!」
昨日まではそう言っていたのに、今日になって「ジョイアミーアに行きたい!」
で、パスタのコース。イカスミのスパゲッティ、魚介のスパゲッティを食べた。
魚の形のボトル(ワインの空き瓶)に入った水がテーブルに置かれたが、わたしも彼女も、この空き瓶に入れられて出される水が飲めなかった。最初にグラスに注がれて出された水一杯をちびちびと飲んだ。
デザートはガラスの器に盛ったソフトクリームだった。カラフルな色がついたチョコスプレーがちりばめられていたが、わたしも彼女も、何とも一気に安っぽくしてしまうそれが嫌いだった。
彼女はメモ用紙を1枚とると何やら手紙を書き出した。
「これ、HTさんに会うことがあったら渡してください。」


16:00pm
ジョイアミーアから千本松牧場までは車で5分と近い。
夕暮れの売店の駐車場は車も疎らだし、小雨は朝から降り続いているし、肌寒い。
わたしたちは売店に入った。
バスが来るまで58分。


「何がいい?バスの中でお菓子食べる?」
「何もいらないです。」
「千本松牛乳にする?」
「わたし牛乳ダメなんです。」
「…あ…、そうだったね? 一口スモークチーズは?おいしいよ。」
「実はスモークが苦手です。」
「…そうだった?」
「わたし、無理だなって思う事、実はいっぱいあったんです。」
「厨房の仕事、食器のアルコール拭き、嫌いでした。」
「アルコール拭き?へえ〜、知らなかった。」
「絶対就職したくない職業がレストランの厨房です。次が、動物の世話。」
「動物は好きなのに? へえ〜、そんな風に見えなかった。」


わたしは彼女にブラックペッパーのチーズと地元産のにんにく、教会のガレット、コーヒー牛乳を購入して持たせた。


それからまた、隣接する別の売店の中をゆっくりと、一つ一つの商品を手に取って、互いに感想をいいながら見て回った。

「この餃子のマスコット、このクオリティーで380円は高いよね〜。」
まるでUFOキャッチャーか何かのおまけににでもついてきそうな安っぽいフェルトでできたそれを手に取る。
「わたしの友だち、こっちに遊びに来てこれ買ってました…。。。」
「キティちゃんに餃子や(那須だけに)茄子を被せれば良いってもんじゃないよね〜?これって著作権の前に、よく商品化許可が降りるよね〜。」
千本松牧場のお菓子だって、後ろをよく確認しないと。製造がここじゃないのって結構たくさんあるよ。ほら、これ新潟じゃん。」
「こっちは日光じゃん。」



バスの時刻まであと5分。
車のトランクを開ける。
「もう少し何とかならないの?この荷物、まとめられないの?」
バスタオルや着替えが入った大きなボストンバッグのファスナーを開けた。
「パソコンのバッグをボストンバッグに入れられない?」
わたしは一度バッグの中の荷物を取り出して、丸めて放り込まれただけのバスタオルを小さくたたみ直す。
「ほら、入るかもよ。」
ファスナーの左右を両手でぎゅっと引っ張る。彼女がファスナーを閉める。
彼女が借りたままのDVDや書籍が入った手さげは私が預かることになった。


細かな雨が降り続いている。
二人でバス停に立った。
「事前に予約すれば新宿まで1600円、安いね〜。」
「近いし、すぐだし、便利ですよ。海外旅行に出かける時にはウチに泊まってください。」
「出国前日に成田で一泊は面倒だね〜。」


16:58pm
バスが来た。
「元気で。頑張ってね。」
「四季風さんも。お元気で。」
小雨の降る中、差していた傘を閉じると彼女はバスに乗り込んだ。
一番前の座席に座ると、窓越しにこちらを向いて深く頭を下げた。
言葉は聞こえない。口だけが〝ありがとうございました〟と象っている。


その感情は突然込み上げた。
じんわりと目頭が熱くなるのが分かった。
わたしは目を大きく見開いて、まばたきをする。
口角だけが無理矢理つり上がって、最後だというのに、きっと、堅く強張った笑顔だったに違いない。

ぎりぎりのところで、涙を喉の奥に詰め込んだ。
彼女を乗せたバスは、雨にテールランプを赤く滲ませて遠くなっていった。


わたしはバケツとほうきの残った車に乗り込んだ。
〝彼女の未来に、幸せと希望と光がありますように。〟



前だけ向いて、頑張れ〜。